1975年以来、インドネシアの仕事に関わって来ました。

 

 

昨今の中国資本によるインドネシア進出は急激に増えつつあり、その速さと規模は目を見張るものがあります。
1968年のスハルト政権発足以降、日本は人・物・金をインドネシアに投下し、この国の近代化に貢献して来たことは誰も否定出来ない事実であり史実です。
これらの蓄積は簡単には崩れないと思いますが、その上に胡坐をかいて油断していると、いつの日かインドネシアは日本を忘れ、中国を最大の経済パートナーとして見ることになるでしょう。
昭和時代のように官民が一体となり、護送船団と呼ばれるような体制で中国の攻勢に対抗することは、親中派が多数を占める今の日本政府では期待するすべもなく、民間の力で出来ることをするしかないと考えています。
そして私が出来ることは、インドネシアに関する知見を出来るだけ多くの日本の関係者に役立ててもらうことだと考え、このサイトやブログ、そしてYoutubeでのウエブセミナーを通じて広めています。

 

略歴
1975年〜2005年ヤマハ株式会社勤務(ほとんどがインドネシア担当、1981年〜1995現地工場責任者として駐在)
2005年〜現在 インドネシアビジネスサポート代表、これまでに関わった案件は100社を超える
2006年〜2019年 静岡大学事業開発マネジメント専攻客員教授受託
2012年〜2013年 静岡国際経済振興会(SIBA)インドネシアビジネス相談員受託
2012年〜2018年 専修大学IT経営学科サプライチェーン・マネジメント講師受託
2013年〜2016年 神奈川中小企業活性化センター(KIRC)インドネシア進出アドバイザー受託
2013年〜2018年 中小企業基盤整備機構インドネシア進出アドバイザー受託
2013年〜2021年 海外貿易振興機構(JETRO)インドネシア専門家受託
2016年〜現在 海外事業支援センター(OBAC)インドネシア進出アドバイザー受託
2017年〜現在 海外産業人材育成協会(AOTS)インドネシア企業経営者研修講師受託
2019年〜現在 日本インドネシアビジネス協会(ABJI)理事就任

 

 

実績
ヤマハ株式会社インドネシア製造法人5社の立上
これまでの主なインドネシア現地法人立上・輸出開始、およびその後のインドネシア事業展開支援企業数
機械金属分野 16社
化学医療分野  8社
電子電気分野  6社
IT分野 3社
農業食料分野 3社
エネルギー分野  1社
その他多数のスポット支援・相談

 

 

これまでにAmazon Kindleから発行したインドネシア進出支援のための電子書籍
1.業務用インドネシア語文例集205
2.インドネシア進出成功のチェックリスト158
3.インドネシア進出問答集
4.インドネシアで仕事をする時の小話的アドバイス50
5.インドネシア投資分野別ガイダンス
6.インドネシア進出のメリット定量化
7.インドネシア生産現場人材育成のポイント
8.インドネシア進出SWOT分析の手引き
9.突然インドネシア工場責任者に命じられて困らないために
10.インドネシア工場管理体制の構築方法
11.インドネシア進出中小企業の落し穴
12.インドネシア現地責任者の必須予備知識
13.インドネシア進出準備作業の手順と勘所
14.インドネシア工場のサプライチェーン構築
15.インドネシアで自社工場を建てる
16.インドネシアで合弁会社を作る
17.インドネシアで日本的経営を行う
18.インドネシアのマーケティングに役立つ情報
19.インドネシア工場責任者の日々の仕事
20.インドネシア工場職種別人材教育テーマ
21.インドネシア事業計画を黒字にするヒント教えます
22.インドネシア労働法の解説
23.まるわかりインドネシアの労働組合
24.グラフで見るインドネシアの地域別経済
25.インドネシアとアセアン競合国の今後をグラフで占う
26.中小企業がインドネシア進出の前にすべきこと
27.ある日本人が考えるインドネシア現代史

 

2023年からはこれまでに蓄積した100件近くのセミナースライドサンプルを基に、YuoTubeでのウエブセミナーを始めました。

 

 

ワサライ・ワライクム!! 小野耕司です。

 

1954年、高校野球ですっかり有名になった、秋田県立金足農業高校の近くで生まれました。

 

中学校の時に吹奏楽部に入り、トロンボーンを担当したことから将来は音楽関係の仕事をしようと心に決め、地元の工業高等専門学校を卒業して現在のヤマハ株式会社に入りました。

 

元々は電気工学が専攻でしたが、成績はあまり良くなかったせいか、入社後は技術部門ではなく、設立したばかりのインドネシア工場の支援部隊に配属されました。

 

そこから私の苦しくも楽しい、半世紀にわたるインドネシア人生が始まったのです!!!

 

入社後数年間は浜松の本社から現地法人のサポートをしていたのですが、結婚して長女が生まれた直後に現地赴任となり、15年間のジャカルタ駐在生活が始まりました。

 

最初は生産課長の肩書でしたが、途中から工場長になり、生産品目が増えたばかりでなく、現地化比率を上げたり輸出を始めたりで毎日が目の回るような忙しさでした。

 

それでも生産課長の時代は比較的気楽でしたが、工場長になってからは経理、税務、労務、貿易と、未知の分野も見なくてはいけなくなり、正に泥縄式で勉強しながら体当たり式に仕事を覚えた時代でした。

 

思い出すと顔から火が出て、穴に入りたくなるような失敗も数多くありましたが、その頃の経験が私にとっては宝物です。

 

駐在中はとにかく現地の従業員や取引先の人達との意思の疎通が大事と思い、インドネシア語の勉強は毎日欠かさず続けました。

 

自慢ではありませんが、インドネシア語の勉強は今でも続けており、現地のテレビニュースは聞き流していても意味は聴き取れるようになっています。

 

会話は頭の中で翻訳しなくても自然に言葉が出てくるので、いわゆるネイティブスピーカーであると自負しています。

 

これまでの人生で確信出来たことは、『人生で無駄なことは何もない』ということですが、50歳で脱サラをしてインドネシア進出支援の独立コンサルタント業を始めた後は、それまでの人生はこの仕事のためにあったのだと確信することも何度がありました。

 

流暢なインドネシア語に裏付けされ、体で覚えたインドネシアでの工場経営の知見を基に、インドネシア進出企業のサポートには絶対的な自信を持っています。

 

進出国は他にもあるのになぜインドネシアなのか?と考えることはしないようにしています。

 

多分、私の天命なのでしょう。

 

駐在中に現地の幹部スタッフから言われた『小野さんは我々のことを本当に理解してくれる日本人だ』が一生の宝です。

 

人事を尽くして天命を待つ、これからの人生は私を生かしてくれた日本ならびにインドネシアのために、これまでに得られた知見や経験を還元して行きたいと考えております。

 

サラーム。